歳時記2020

OCT-NOV 2020

11月の京都・高瀬川。師走に向けて、気忙しさが増す。川沿いの木屋町通りを歩く人々も心なしか急ぎ足だ。この界隈は桜の季節にはまっすぐに歩けないくらいの人出だが、今は人の姿もまばら。観光地としての京都と暮らす土地としての京都。どちらも大切だという事はわかっている。楽しい毎日。心の底から笑う日々。この流れのように、絶えず、そこにある幸せを取り戻すには?今こそ考えよう。

SEP-OCT 2020

夏の終わりと秋の始まり。朱夏のその一瞬。短く、愛おしい。むせるような暑さの夏は、人生の盛りを思わせる。ゆらぐ、この季節は齢にして40代後半か。盛りではない寂しさもあり、これから迎える実りの季節への期待もあり。散歩をしていると水際でくつろぐ鳥たちに出会った。季節は本能がキャッチするのか。センチメンタルになんかならないんだろうな。風が吹いて、鳥たちの動きが止まった。この風は、いつか来た道にも吹いていた。風と共に多くの思い出が頬をかすめる。50年前にも50年後にも自分はいない、ていう有名な言葉は、なんという小説の中の一節だったか。そんなことを思う、朱夏の午後。

JUL-AUG 2020

物心ついてからこのかた、7月になると京都の街が短い時間で急変する、その過程を肌で感じてきた。勢いのある、大きな祭りに向かってゴロリと動きだす、心地よい喧騒。脈々と続いてきたんだから、あたりまえのように続くと思っていた。まさか、大祭が中止になるなんて。敵わないのか、歴史やしきたりそのものを変えていくのか。大きな岐路に立つ、古都の夏。

MAY-JUN 2020

庭の薔薇が咲いた。去年と同じように。しかし、見る側の気持ちが違っているから、全く違うもののようだ。永遠に続くものなんて何もない。わかっているけれど、季節の繰り返しを清らかに咲く花に感じることさえ、有難く思えるとは。なるしかならないけれど、どうせなら、前向きに。Chance、Challenge、Chargeの精神で。

APR-MAY 2020

疫病が蔓延し、未曽有の事態となった。「真綿で首を絞められるような瀕死の状態。スタッフの引退や、発表の場の閉店が相次ぐ」という演劇関係の知人の話を聞き、文化の担い手の切迫した現状を知った。役者や歌手らアーティストはもちろん、大道具、照明といったエンターティメント業界のスタッフも仕事が無い状態が続く。日本文化を紡ぎ、支えてきた職人や盛り上げてきた業界も同様。今までもギリギリのところで続けてきた生業を、ここで廃業することを余儀なくされることもあるだろう。一度、途絶えれば再興は難しい。命が何よりも大事。しかし、いつでも文化は生きる力と夢を与えてくれた。何とかならないんだろうか。悲しみ、広がる。

FEB-MAR 2020

久しぶりに高瀬川沿いの路地を通ると、そこにあったビルが無くなっていた。高瀬川を挟んで対岸に、ライトアップされたソメイヨシノの姿があった。何十年もの間、この桜の下を通っていたのに、また違った風景が、そこにあった。こういう角度から見るのも最初で最後だろうな、と思い、しばし立ち止まった。桜はいつも儚く、陽光に囲まれる春なのにもの悲しさもつきまとう。この花をみるたびに思い出す人たちがいる。すでに黄泉にいて、会うことは叶わないはずなのに、その人たちの笑った顔や、口癖がふと湧く瞬間がある。桜の花びらが舞う下で、心に広がる一抹の惜別の情。

JAN-FEB 2020

元号が変わって初めての正月が、あっと言う間に過ぎた。昨年と同じことをやっていては、人生の階段を一段ずつ確実に登れない。自分が変えるべきところ、習慣は何か。そんなことを考えるのは元日ではなく1月7日だ。一年の無病息災を祈って食する七草粥。枕草子にも描かれて、すでに平安時代には存在した。七種類の若葉を入れた温かい汁物を食べて健康と繁栄願う。もう、何年も同じことを思い、同じことを繰り返している。これこそが、変えるべきところなのだろうな。今年も幸多き年でありますよう。

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You&Me

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トラックと灯篭

 

 

高校時代から仲良くしている同級生グループがある。中心的な6人は皆勤。その他、数人が入れ替わり、盆暮れのほかにも、あれこれ理由をつけて集まる。女性は自分だけ。住まいは、地元に半分、関東に半分と言う分布図。16歳から付き合ってきた面々は、もう人生の朱夏にさしかかっている。話題も年相応になってきた。その中の一人の話に、全員が聞き入った。「ちょっと早いけど、両親ともに施設に入ってもらったんやわ。俺はちょっと離れたとこに家を建てたやろ?実家が空くやろ?どうしたもんかな、と思ってたら、隣の広大な空き地に総合病院が建つことにことになった。それで、2年間くらい工事スタッフの仮宿に貸した。内装は好きなように触ってもいい、と言ったら、クーラー、洗面台、トイレ、流し台が新品になって返ってきた」。一同「それは良かったな」とうなずく。「それでな、しばらく放っといたんやけど、近所の長谷川から電話がかかってきて」「おー、あの同級生の長谷川くんか」「ガレージに置いてあったトラックが1か月くらい前から、無いで、て言われて。要するに盗まれたみたいや。廃車にしようと思てたから、まあ、ええけど」。「えーっ」とみんなが叫ぶ。「まあ、仕方ないな、と思ってたら植木屋から電話がかかってきて、灯篭がありませんで、と言われた。これまた盗まれたんやわ。それで植木屋が言うには、泥棒は素人やな、て」「な、なんで?」「灯篭の一番下の石台が残ってて、あれが無かったら価値無いらしいわ。これまた、デカい灯篭で、家を更地にする時に費用がすごいやろな、と思ってたから、まあ、良かった」「…なるほど」「それで、問題は、いつ盗んでいったか、トラックに灯篭を乗せたのか、という話になって、昼に作業服を着て、悠々と盗んだんと違うか、ということになったんやわ。しばらくして、きれいになったから、病院が貸してくれないか、ということになって貸してるんやわ」「それで?」「それで、どうせ更地にするから、自由に何してもいい、て伝えたんやわ。そしたら、こんなん、どないするの、ていう巨石2個を撤去して、古い外塀を潰して、雑草だらけの庭にコンクリートを敷いて、駐車場にして、病院が系列の介護施設に貸してるねん」「えーっ、又貸しやん」「ええねん。あの、どうやって運んで来たか知りたい、と長年思ってた巨石が無くなって、きれいに整備されたから、良かったわ」。今年は「まあ、ええねん」と気楽に生きてみよう、と思った次第。

 

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椿

 

 

最愛の母が急逝して丸三年になろうとしている。 心臓が弱かった彼女は、直前まで笑っていて、突然、スッと眠るように逝ってしまった。別れを惜しむことも、感謝の言葉を伝えることも出来なかった。病弱な母を支えるために、大学時代から、かなりの自分の時間と気持ちを捧げてきたつもり、それでも至らぬ子供でごめんなさい、幸せだった?と聞くことも許されなかった。母は慎ましやかに生きた一介の主婦だったが、地域の施設にピアノを寄付したり、恵まれない母子たちを援助したり、と微力ながら社会貢献をしていたので、訃報を聞いて、びっくりするほどの人が悲しんでくれた。部屋に入らないくらいの多くの花が届き、病弱な自分をコントロールしながら懸命に生きた母の人生を誇りに思った。半年くらいたって、微かな疑問が浮き出てきた。南庭に面した道路を挟んで向かい側に、母を本当に頼りにしてくれた婦人がいる。引っ越ししてきてすぐに、ご近所との付き合い方や、子育ての相談に乗り、お互いの家族の成長を祝い、おすそ分けを交換し、長期に留守をする場合は連絡先を託してきた。その方から、お悔やみをいただくどころか、顔すら見なくなった。さらに年月が経ち、母とは何かあったのかもな、と思うようになった。2年ほど経ったある日、最寄り駅から自宅に向かう路上で、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、そこに例の婦人が立っていて、静かに話し始めた。「私はね、〇〇さん(母のこと)が、もうこの世に居ないなんて信じていないし、認めていない。声は聞こえないけど、そういう時もあったし。けど、会えない。ほら、お宅の塀から椿の枝が出ていて、花が1輪、こちらに向いて咲いているでしょう?あっ、〇〇さんだ。私を励ましてくれてる、て思っているの」。その夜、前の道に回って、その椿を月あかりの下で見た。お母さん、あなたはたくさんの人の心の中で生きているのね。お母さん、いま、天国で何してる?私は「悲しみと絶望」という名の湖の湖畔を変わりゆく景色に励まされながら、グルグルと廻っている感じ。あなたを失って急に老け込んだお父さんと力を合わせて、何とか、やっているよ。

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山の端

 

今年は多くを失った。取材した女優さんに「私、あそこの焼きそばがないとダメなの」と教えてもらった五条通に面したお好み焼き屋さんが閉店した。おばさんたちが、独特の手法で焼くキャベツいっぱいの焼きそばは、海外にも紹介されて、旅行者からも愛されたが、57年の歴史に幕を下ろした。日本を代表するアパレル会社が上場を廃止して倒産。パリコレでおなじみのデザイナーのコレクションを扱っていて、とても贔屓にしていたが、ある日、突然に購入できなくなった。中学時代から通っていた滋賀県大津の百貨店が閉店した。ポストには、日に2,3枚の割合で閉店や廃業の知らせが投げ込まれる。時世と言えば、それだけだけど、しかし、一気に思い出の場所や大好きなものが、手のヒラから流れおちる白砂のように無くなっていく。人の感情に「あきらめ」というのがあって良かった。でないと、惜別の沼から這い上がれない。しかし、失って一番、悲しかったのは何かと聞かれれば、それは自宅から見えていた山々の端だ。自宅の斜め前に広がる、100台ほどの駐車場の敷地半分にマンションが建設されている最中だ。あれほどの広さの駐車場を維持するのは大変だっただろう、と考えていたが、だんだん足場が作られていき、気が付いた。我が家の居間から庭を通して見る山々の端が見えなくなる。試験前日の徹夜明けに見た。海外旅行に行く前に浮き浮きしながら見た。友人からの電話を受けて心配しながら見た。父親とけんかして、申し訳なくて反省しながら見た。何千回と見た。特に美しいのは、山の端が夕暮れに染まってから薄暮に向かう時。励まされ、癒され、あたりまえにあると思っていた時間。その風景がさえぎられて失われた。そして、また、あきらめるんだろう。生きるって、こういうことなんだ。

 

 

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悲しみ

 

大切な人が、ある日、逝った。元気だったのに、突然に。明日はあると思っていたのに。耐えられないのではないかと思うような悲しみが押し寄せる。その人が生活をしていた空間に身を置くと、二の足の裏から体の軸を伝って心臓を射るような思いが襲う。数々の物が遺されたが、中でも洋服と靴下は抱きしめたくなるような愛しさだ。この服を着て、笑いながら紅茶を飲んでいた。歩き方に癖があったから、靴下のいつも同じところがすぐに薄くなった。洗濯が下手だと怒られた。共に異国を巡る旅を満喫した。もう二度とその体に触れることができない。遺された服たちを手にとると、それを着た姿が次々に浮かび、涙があふれた。いつかは訪れると恐れていた別れ。永遠に続くものは何もない。時の流れと共に悲しみは薄れると言う。たとえ、薄れても消えはしない。ありがとう。そして、さようなら。また、会える、その時まで、さようなら。でも、本当は、一度でいいから、すぐに会いたい。