歳時記2018

NOV - DEC 2018

南座が次の100年を見据えて改装し、3年ぶりに開かれた。顔見世のまねきが、いつもより1か月早く11月に上り、京都の街では「あれが上がると師走という気がするわ。まだ11月やのに、勘が狂いますわ。あー忙し」「まだ11月やのに、一気にお正月が近づいてきた気分でおちつきません」という声があちこちから聞こえた。まねきを横目に、そわそわと、早足に歩く姿。締めくくりの風物詩とは、こういうものなのだろう。新しい南座には、伝統の職人技が随所に。輝く金もいずれかは燻し金色に変わる。歌舞伎も職人の技も100年後に、まだ残っているのだろうか。

SEP - OCT 2018

風雪や人の営みに削られて、エッジが無くなった石を、ただ見るのが好きだ。苔むし、刻まれた文字も薄れ、危うい均等を保ちながら、そこにある。カタチあるモノはいつかは崩れ、埋もれ、なくなる。石の場合、その過程に費やされる時間は長い。誰かが置いたカリンの果実。もぎ取られたばかりのみずみずしさが、苔の上で放つ生の輝き。そして、すぐに朽ちる儚さ。

JUL-AUG 2018

京都には非公開の美しい庭がいくつもある。持ち主が個人で季節の変化を楽しんだり、先祖からの継承を保つためだったり、理由はそれぞれだが、限られた人にだけ、その美しさを愛でる権利が与えられる。しかしながら、密かに「垣間見庭」と呼んでいる空間は、好意により、門や扉が開けられ、その外から拝観することができる。大切な私物を見せていただく至福。たとえば、大徳寺塔頭の黄梅院。8月のまばゆいばかりの緑を佇んで拝む。拝観不許可の庭。千利休が作庭した庭を有し、織田信長が眠っている。木漏れ日が苔に描く輝きに、いにしえを想う。

JUN-JUL 2018

7月に入ってしばらくすると、遅くなってきた日暮れを待ちきれないかのように、祇園祭りのお囃子が四条烏丸界隈で鳴りだす。まだ、音合わせの練習の緒段階なので、旋律は合っているものの、ゆるい感じで演奏され、ああ、これは助走なのだな、と思う。鉾が建てられるまでの数日間ほど「今年も迎えられる」という思いが強くなる時はない。街の準備も喧噪も始まったばかりで、鐘と笛の音色が先行する。何百年前から街に流れる祇園囃子は、京都で生まれ育った自分にとってはSOULだ。生まれた時から変わらぬお囃子を聞いて、時を駆け、土にかえる。いま、いろいろな形で祭りを支えている市井の人達の尽力も情熱も埋もれて消える。あっと言う間の人生だな。

MAY-JUN 2018

水無月の青モミジを静かに愛でることができる場所がある。南禅寺中門をくぐってすぐ北へ、鹿ヶ谷通を歩き、東山中学・高等学校を経て、禅林寺(永観堂)までの小路だ。中でも禅林図書館前の小さな池を囲む風景は知る人ぞ知る、京都人の大切な癒しの空間だ。清らかながら、いろいろな味わいの緑色が重なり、静かなパワーとなって身を包んでくれる。平安時代に生まれた日本の伝統色の襲色目(かさねいろめ)」では、青紅葉と表記され、秋に用いられた襲色目となる。表に青、裏地に朽葉色で、赤く色づいた葉の下に隠れるように存在する青紅葉を表す。「紫の匂い(むらさきのにほひ)」「雪の下」「若菖蒲(わかせいぶ)」… 色をねて自然を表現するとは。なんと優雅な時代だったのだろう。

APR-MAY 2018

梅雨から夏に季節が走る、助走の5月。一年で木々が最も美しい季節だ。南丹・美山へ、生命の息吹を感じるグリーンに出合いに行く。小川沿いの土手に群生する名もない草花。葉型や明度の違いが、一幅の絵画のようだ。この自然を享受できるのは、極寒の冬を乗り越えたから。厳しい自然と共に生きる人々への、ご褒美なのだろう。美しい日本の風景。協奏曲のように迫りくる、生のちから。

MAR-APR 2018

桜は咲いて、ほどなく散る。うきうきと京都の路地を歩くと、いろいろな桜が語りかけてくる。京都市指定文化財の日本基督教団 京都御幸町教会は、建築家のウィリアム・ヴォーリズが1913年に建てた。彼の初期の作品として有名で現存の教会堂としては最古のもの。ヴォーリズは京都市内で教会を多く設計したが、完全に近い状態で姿が残っているのはここだけ。上の窓は京都をイメージしてか格子戸風に。青空とレンガに映える桜だが、なぜか枝が大幅に伐採されている。何かあったのかな、と見上げていると、花びらがひとひら。100年後にも、この風景はあるだろうか。

FEB-MAR 2018

夜の闇に浮き上がる白梅は、夜桜ほど華やかさはないものの、曲がり伸びる枝振りが、はかなげで趣がある。伝統的建造物群景観保存地区に指定された祇園新橋の料理旅館「白梅」へは、白川にかかる橋を渡って入店する。江戸末期の創業時は、お茶屋「大柳」だったが、1949年に現在の形態に。ゆうに樹齢100年を越える白梅・紅梅の古木の奥に数寄屋建築が佇む。創業当時とあまり変わらない風景。今も昔も人は悩み、歓びながら橋を渡った。春浅い闇夜に飛ぶように咲く白く小さな花々を格別の思いで見上げていたのだろう。

JAN-FEB 2018

京都で「えべっさん」と言えば、祇園の建仁寺西にある京都ゑびす神社。普段は静かな神社も、1月8日から始まる十日ゑびす大祭の時は、新旧の笹を持った参拝客でごったがえす。笹は真直に伸びで、折れず、葉が落ちないことから家運隆昌、商売繁盛の象徴となった。偶然、旧知の老舗の旦那に会った。手をつないで横にいた我が子に「ほら、挨拶せんかいな」と言うと「お父ちゃん、昨日も来たやん。なんで続けてえべっさんなん?昨日も知らん人にいっぱい挨拶したわ、僕」とつぶやいた。「お前も大きなったらわかる。あっ、ほな失礼します」と軽い足取りで奥に消えたが、理由は明白。10日は東映太秦映画村から駆けつける女優さんが、11日には祇園町と宮川町の舞妓さんが福笹や福餅を奉仕するからだ。極寒の中、なぜか温かさを感じた、残り福の吉日。

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You&Me

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トラックと灯篭

 

 

高校時代から仲良くしている同級生グループがある。中心的な6人は皆勤。その他、数人が入れ替わり、盆暮れのほかにも、あれこれ理由をつけて集まる。女性は自分だけ。住まいは、地元に半分、関東に半分と言う分布図。16歳から付き合ってきた面々は、もう人生の朱夏にさしかかっている。話題も年相応になってきた。その中の一人の話に、全員が聞き入った。「ちょっと早いけど、両親ともに施設に入ってもらったんやわ。俺はちょっと離れたとこに家を建てたやろ?実家が空くやろ?どうしたもんかな、と思ってたら、隣の広大な空き地に総合病院が建つことにことになった。それで、2年間くらい工事スタッフの仮宿に貸した。内装は好きなように触ってもいい、と言ったら、クーラー、洗面台、トイレ、流し台が新品になって返ってきた」。一同「それは良かったな」とうなずく。「それでな、しばらく放っといたんやけど、近所の長谷川から電話がかかってきて」「おー、あの同級生の長谷川くんか」「ガレージに置いてあったトラックが1か月くらい前から、無いで、て言われて。要するに盗まれたみたいや。廃車にしようと思てたから、まあ、ええけど」。「えーっ」とみんなが叫ぶ。「まあ、仕方ないな、と思ってたら植木屋から電話がかかってきて、灯篭がありませんで、と言われた。これまた盗まれたんやわ。それで植木屋が言うには、泥棒は素人やな、て」「な、なんで?」「灯篭の一番下の石台が残ってて、あれが無かったら価値無いらしいわ。これまた、デカい灯篭で、家を更地にする時に費用がすごいやろな、と思ってたから、まあ、良かった」「…なるほど」「それで、問題は、いつ盗んでいったか、トラックに灯篭を乗せたのか、という話になって、昼に作業服を着て、悠々と盗んだんと違うか、ということになったんやわ。しばらくして、きれいになったから、病院が貸してくれないか、ということになって貸してるんやわ」「それで?」「それで、どうせ更地にするから、自由に何してもいい、て伝えたんやわ。そしたら、こんなん、どないするの、ていう巨石2個を撤去して、古い外塀を潰して、雑草だらけの庭にコンクリートを敷いて、駐車場にして、病院が系列の介護施設に貸してるねん」「えーっ、又貸しやん」「ええねん。あの、どうやって運んで来たか知りたい、と長年思ってた巨石が無くなって、きれいに整備されたから、良かったわ」。今年は「まあ、ええねん」と気楽に生きてみよう、と思った次第。

 

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椿

 

 

最愛の母が急逝して丸三年になろうとしている。 心臓が弱かった彼女は、直前まで笑っていて、突然、スッと眠るように逝ってしまった。別れを惜しむことも、感謝の言葉を伝えることも出来なかった。病弱な母を支えるために、大学時代から、かなりの自分の時間と気持ちを捧げてきたつもり、それでも至らぬ子供でごめんなさい、幸せだった?と聞くことも許されなかった。母は慎ましやかに生きた一介の主婦だったが、地域の施設にピアノを寄付したり、恵まれない母子たちを援助したり、と微力ながら社会貢献をしていたので、訃報を聞いて、びっくりするほどの人が悲しんでくれた。部屋に入らないくらいの多くの花が届き、病弱な自分をコントロールしながら懸命に生きた母の人生を誇りに思った。半年くらいたって、微かな疑問が浮き出てきた。南庭に面した道路を挟んで向かい側に、母を本当に頼りにしてくれた婦人がいる。引っ越ししてきてすぐに、ご近所との付き合い方や、子育ての相談に乗り、お互いの家族の成長を祝い、おすそ分けを交換し、長期に留守をする場合は連絡先を託してきた。その方から、お悔やみをいただくどころか、顔すら見なくなった。さらに年月が経ち、母とは何かあったのかもな、と思うようになった。2年ほど経ったある日、最寄り駅から自宅に向かう路上で、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、そこに例の婦人が立っていて、静かに話し始めた。「私はね、〇〇さん(母のこと)が、もうこの世に居ないなんて信じていないし、認めていない。声は聞こえないけど、そういう時もあったし。けど、会えない。ほら、お宅の塀から椿の枝が出ていて、花が1輪、こちらに向いて咲いているでしょう?あっ、〇〇さんだ。私を励ましてくれてる、て思っているの」。その夜、前の道に回って、その椿を月あかりの下で見た。お母さん、あなたはたくさんの人の心の中で生きているのね。お母さん、いま、天国で何してる?私は「悲しみと絶望」という名の湖の湖畔を変わりゆく景色に励まされながら、グルグルと廻っている感じ。あなたを失って急に老け込んだお父さんと力を合わせて、何とか、やっているよ。

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山の端

 

今年は多くを失った。取材した女優さんに「私、あそこの焼きそばがないとダメなの」と教えてもらった五条通に面したお好み焼き屋さんが閉店した。おばさんたちが、独特の手法で焼くキャベツいっぱいの焼きそばは、海外にも紹介されて、旅行者からも愛されたが、57年の歴史に幕を下ろした。日本を代表するアパレル会社が上場を廃止して倒産。パリコレでおなじみのデザイナーのコレクションを扱っていて、とても贔屓にしていたが、ある日、突然に購入できなくなった。中学時代から通っていた滋賀県大津の百貨店が閉店した。ポストには、日に2,3枚の割合で閉店や廃業の知らせが投げ込まれる。時世と言えば、それだけだけど、しかし、一気に思い出の場所や大好きなものが、手のヒラから流れおちる白砂のように無くなっていく。人の感情に「あきらめ」というのがあって良かった。でないと、惜別の沼から這い上がれない。しかし、失って一番、悲しかったのは何かと聞かれれば、それは自宅から見えていた山々の端だ。自宅の斜め前に広がる、100台ほどの駐車場の敷地半分にマンションが建設されている最中だ。あれほどの広さの駐車場を維持するのは大変だっただろう、と考えていたが、だんだん足場が作られていき、気が付いた。我が家の居間から庭を通して見る山々の端が見えなくなる。試験前日の徹夜明けに見た。海外旅行に行く前に浮き浮きしながら見た。友人からの電話を受けて心配しながら見た。父親とけんかして、申し訳なくて反省しながら見た。何千回と見た。特に美しいのは、山の端が夕暮れに染まってから薄暮に向かう時。励まされ、癒され、あたりまえにあると思っていた時間。その風景がさえぎられて失われた。そして、また、あきらめるんだろう。生きるって、こういうことなんだ。

 

 

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悲しみ

 

大切な人が、ある日、逝った。元気だったのに、突然に。明日はあると思っていたのに。耐えられないのではないかと思うような悲しみが押し寄せる。その人が生活をしていた空間に身を置くと、二の足の裏から体の軸を伝って心臓を射るような思いが襲う。数々の物が遺されたが、中でも洋服と靴下は抱きしめたくなるような愛しさだ。この服を着て、笑いながら紅茶を飲んでいた。歩き方に癖があったから、靴下のいつも同じところがすぐに薄くなった。洗濯が下手だと怒られた。共に異国を巡る旅を満喫した。もう二度とその体に触れることができない。遺された服たちを手にとると、それを着た姿が次々に浮かび、涙があふれた。いつかは訪れると恐れていた別れ。永遠に続くものは何もない。時の流れと共に悲しみは薄れると言う。たとえ、薄れても消えはしない。ありがとう。そして、さようなら。また、会える、その時まで、さようなら。でも、本当は、一度でいいから、すぐに会いたい。