歳時記2017

DEC-2017 

1928年に昭和天皇大礼を記念して建てられた登録有形文化財(建造物)・平安神宮大鳥居は高さ24m、幅18m。明神型で柱が太く堂々とした佇まいである。当時、京都府技師だった阪谷良之進さんが設計した。正面からは平安神宮正面の門である応天門 までを一直線に見渡せるが、鳥居をくぐるには車道に出なくてはいけない。平安神宮は独特の建物ゆえに大鳥居の様式を決めるのに100以上の神社の鳥居が調査され、建設場所の決定にも相当な時間を要した。

この鳥居がなぜか凛と締まるように見えるのは師走だ。あと何日かで初詣を迎える、その寸前の静かさ。京都国立近代美術館の2階から見るのが特に良い。冬の曇天に比叡山と京都市美術館を背景に往く年への名残の朱色が際立つような気がする。

OCT-NOV 2017

11月は京都の誘いが最も多い月である。素材が充実する時期ということもあり「久しぶりに美味しいもんでも食べましょか。」という言葉の先は、たいてい日本料理店となる。出汁が勝負の椀物は、その店を最も表す一品と言われるが、もうひとつ、吹き寄せがあるように思う。素材の組み合わせ、盛り方、器とのコンビネーションに、料理人のセンスがあらわれる。素材の形と色が多種多様なだけに、器選びは難しいと言う料理人が少なくない。野菜料理を得意とする「高台寺とよ川」の中村茂雄さんの、吹き寄せには、今年の残りの日々を数えてため息をつく身を励ましてくれる、滋味と温かみがある。

SEP-OCT 2017

観光地である京都では10月から年末にかけて、気忙しさが先行する。世界中から押し寄せる、といっても過言ではない観光客、お茶会、さまざな催しで地元の商売人は忙しさのピークを迎える。先日もある和菓子屋の店主が「朝から晩まで、いや、晩も寝んと働きますわ。猫見たら、ホンマに手を貸して、て言いたくなるくらいです」と話していた。早足で行く、そのついでにチラチラと街の紅葉を目にしても、愛でるというほどの余裕も無い。深夜、一息ついたところで、お茶を点てる。小さな碗を宇宙にみたて、そこに季節を感じて自己を慰め、勇める。京都・下鴨の井村美術館所蔵の京薩摩金襴手菊花文姫茶碗。薩摩焼に京都で職人が絵付けをした豪華な文化財ともいうべき一品。館長兼オーナーの井村欣裕さんによると、お姫様が化粧時に水を入れて使用したそうだ。本金を使い、超絶技法で咲かせた花々。秋、粛々と。

AUG-SEP 2017

夏の終わりの予感は、夕刻に扉を開けた瞬間に飛び込んでくる。むせるような暑さは、もうそこには無く、涼やかな空気が肌に触れる。京都市左京区北白川の白川疏水沿いにある駒井家住宅の玄関口。駒井家住宅は「日本のダーウィン」と評され遺伝学等に大きな功績を残した駒井卓博士(京都大学名誉教授)の私邸だった。今は公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され2004年から一般公開されている。運営は駒井家住宅をこよなく愛するボランティアの方々というのも興味深い。1927年、ヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた。アメリカン・スパニッシュ様式の建物で夫妻は多くの人を招き、おおらかに生きた。その笑い声がどこからか聞こえてきそうな朱夏の昼下がり。

JUL‐AUG 2017

8月1日は旧暦で「八朔(はっさく)」と呼ばれ、お世話になっている人に贈り物をしてお礼をする日とされていた。 京都の祇園では、この慣わしが今でも受け継がれていて舞妓や芸妓たちは、黒紋付き姿であいさつ回りをする。暑さも本格的で外回りのついでに、贔屓の店でかき氷などを、ちょこっと食べるのが密かな楽しみでもある。この時期の青モミジは涼やかで、楚々としている。むしろ紅葉よりもこちらのほうに惹かれる。高瀬川に沿う一之船入町にある「廣誠院」は伊集院別邸として非公開ながら、その庭の趣の深さは京都でも有数とされている。たまに公開されることがあり、地元の京都人もその機会を「何をおいても行かなあきません」と心待ちにしている。書院の縁台はつきでるように庭に出ていて、そこから見下ろす池と青モミジ、そして池面に映る空と葉陰は、吸い込まれるような光景だ。障子を閉めると、池の表面に反射した太陽の光が障子に走馬灯のように、ゆらゆらと映る。行く夏を惜しむ思いが重なる。

JUN-JUL 2017

街のあちこちで祇園囃子が鳴り出すと、なぜか気忙しい。短い夏の始まりは、その終わりをも感じさせるのはなぜだろう。生まれてこのかた“京都の水しか飲んだことが無い”自分にとって、もはや皮膚にしみ込んでいるような響き。母に手を引かれて見上げた時と、世俗の垢にまみれて生きている今。街の風景や面子は変われど、祭りを支えていこうという鉾町の熱意は変わらない。鉾の中でも最も美しいとされる船鉾。特に薄暮に見上げると灯った提灯が鉾を浮き上がらせて、幽玄さを増す。今年は鉾正面の唐破風の下に飾られ「緋羅紗(らしゃ)地雲鳳凰図」と呼ばれる天水引が復元新調された。室町中期の本面と江戸時代作製の写し面を木箱から取り出し、面の無事を確認する「神面改め」で、いよいよ今年も、始まる。

MAY-JUN 2017

外灯が灯った直後、夕立を迎える前。石畳は熱を放ちながら闇に紛れる用意を始める。これから降る雨をはじき、洗われ、帳が降りてからは、きらきらと輝く。手前の石畳は年月を経て、風雪や人の営みによって良い具合に削られ、奥の石畳は新たに歴史を刻み始めた。西陣・手織技術振興財団の資料館「織成舘」前の浄福寺通は、京都市の景観を守るまちづくり協議会の第一号の事業として電線を廃し、石畳にされた。新しく敷かれた石畳が、手前のように味ある姿になるころには、もう、自分はこの世に居ない。あっと言う間の人生だな。てなことを、ぼんやりと考える、ゆるやかでまったりとした梅雨の夕暮れ。

APR-MAY 2017

 

京都の有名な寺や庭園は観光客で溢れかえっていると思われがちだが、他人の姿をほとんど見ない、という時もある。信じがたいが、ぽっかりと時間の穴が開いたように人波が引く。たった一人になれる奇跡は、そこに自分が居る意味を問うことになる。北区鷹峯の光悦寺はそういう機会を得る確率が高いように思う。本阿弥光悦が徳川家康から賜り、終の棲家として愛した寺で、6つの茶室が点在する美しい庭を有する。紅葉の名所として名高いが、むしろ新緑に惹かれる。庭の入口の石垣の向こうに広がる緑の集結は一幅の日本画を見るようで心が震える。時空を独占するという贅沢を味わう、幸せな時間。

MAR-APR 2017

なんと美しい形。なんと柔らかな春の光。日常の美を求めた陶芸家・河井寛次郎さんが終の棲家とした家屋。今は記念館となり、当時の生活の片りんを感じさせてくれる。地位名誉、お金には興味が無かった。戦時中に疎開させた作品を、現地に置いたまま寄贈してしまったという逸話も残っている。名器を残したが、言葉の名人でもあった。遺された言葉は多くの人の心に入り込み、支えとなっている。将棋棋士の故・大山康晴十五世名人は「助からないと思っても助かっている」「一灯破闇」という言葉を座右の銘とし、戦った。

FEB-MAR 2017

梅は花と共に、その枝振りに趣がある。不整列で雑然と伸びている様が多くの画家を虜にした。その絵を表現する際に「香り立つような」と言われるのは、梅が持つ芳香のためだ。菅原道真公をまつる京都・長岡天満宮の池の横に1本だけ参道に覆い重なるように立つ梅の木がある。帳が下りて花が見えなくなるほど暗くなった、その時に、下をくぐる。微かで、しかし艶やかな香りが降ってきて、心に満開の梅の花が咲く。

JAN-FEB 2017

京都・祇園北側、四条通沿いにある京菓子「鍵善良房」本店のウインドウは、その店構えと相いまって、京都でも有数の美しい空間だ。盛られた季節と美意識に足を止めることしばしば。江戸時代から誇りを持って脈々と伝えられた来たお菓子作り。時代は流れても、切磋琢磨されて洗練してきた菓子の数々に宿る凜とした精神は変わらない。箱やしおりなどの意匠や調度品も随一で、店の奥のカフェは、おだやかな時間が流れるミュージアムカフェといったところだ。節分の菓子「福俵が飾られたら、京都の春は、すぐそこに。※福俵の販売は2月3日で終了しています。

DEC-JAN 2017

知人から届いた京都・美山の雪景色。家の中でも零下10度になることもある。美しいけれど厳しい自然。それでも人々は、笑いながら生活をする。静けさの中で聞こえるのは雪の落ちる音。©Midori Yagyu

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You&Me

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トラックと灯篭

 

 

高校時代から仲良くしている同級生グループがある。中心的な6人は皆勤。その他、数人が入れ替わり、盆暮れのほかにも、あれこれ理由をつけて集まる。女性は自分だけ。住まいは、地元に半分、関東に半分と言う分布図。16歳から付き合ってきた面々は、もう人生の朱夏にさしかかっている。話題も年相応になってきた。その中の一人の話に、全員が聞き入った。「ちょっと早いけど、両親ともに施設に入ってもらったんやわ。俺はちょっと離れたとこに家を建てたやろ?実家が空くやろ?どうしたもんかな、と思ってたら、隣の広大な空き地に総合病院が建つことにことになった。それで、2年間くらい工事スタッフの仮宿に貸した。内装は好きなように触ってもいい、と言ったら、クーラー、洗面台、トイレ、流し台が新品になって返ってきた」。一同「それは良かったな」とうなずく。「それでな、しばらく放っといたんやけど、近所の長谷川から電話がかかってきて」「おー、あの同級生の長谷川くんか」「ガレージに置いてあったトラックが1か月くらい前から、無いで、て言われて。要するに盗まれたみたいや。廃車にしようと思てたから、まあ、ええけど」。「えーっ」とみんなが叫ぶ。「まあ、仕方ないな、と思ってたら植木屋から電話がかかってきて、灯篭がありませんで、と言われた。これまた盗まれたんやわ。それで植木屋が言うには、泥棒は素人やな、て」「な、なんで?」「灯篭の一番下の石台が残ってて、あれが無かったら価値無いらしいわ。これまた、デカい灯篭で、家を更地にする時に費用がすごいやろな、と思ってたから、まあ、良かった」「…なるほど」「それで、問題は、いつ盗んでいったか、トラックに灯篭を乗せたのか、という話になって、昼に作業服を着て、悠々と盗んだんと違うか、ということになったんやわ。しばらくして、きれいになったから、病院が貸してくれないか、ということになって貸してるんやわ」「それで?」「それで、どうせ更地にするから、自由に何してもいい、て伝えたんやわ。そしたら、こんなん、どないするの、ていう巨石2個を撤去して、古い外塀を潰して、雑草だらけの庭にコンクリートを敷いて、駐車場にして、病院が系列の介護施設に貸してるねん」「えーっ、又貸しやん」「ええねん。あの、どうやって運んで来たか知りたい、と長年思ってた巨石が無くなって、きれいに整備されたから、良かったわ」。今年は「まあ、ええねん」と気楽に生きてみよう、と思った次第。

 

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椿

 

 

最愛の母が急逝して丸三年になろうとしている。 心臓が弱かった彼女は、直前まで笑っていて、突然、スッと眠るように逝ってしまった。別れを惜しむことも、感謝の言葉を伝えることも出来なかった。病弱な母を支えるために、大学時代から、かなりの自分の時間と気持ちを捧げてきたつもり、それでも至らぬ子供でごめんなさい、幸せだった?と聞くことも許されなかった。母は慎ましやかに生きた一介の主婦だったが、地域の施設にピアノを寄付したり、恵まれない母子たちを援助したり、と微力ながら社会貢献をしていたので、訃報を聞いて、びっくりするほどの人が悲しんでくれた。部屋に入らないくらいの多くの花が届き、病弱な自分をコントロールしながら懸命に生きた母の人生を誇りに思った。半年くらいたって、微かな疑問が浮き出てきた。南庭に面した道路を挟んで向かい側に、母を本当に頼りにしてくれた婦人がいる。引っ越ししてきてすぐに、ご近所との付き合い方や、子育ての相談に乗り、お互いの家族の成長を祝い、おすそ分けを交換し、長期に留守をする場合は連絡先を託してきた。その方から、お悔やみをいただくどころか、顔すら見なくなった。さらに年月が経ち、母とは何かあったのかもな、と思うようになった。2年ほど経ったある日、最寄り駅から自宅に向かう路上で、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、そこに例の婦人が立っていて、静かに話し始めた。「私はね、〇〇さん(母のこと)が、もうこの世に居ないなんて信じていないし、認めていない。声は聞こえないけど、そういう時もあったし。けど、会えない。ほら、お宅の塀から椿の枝が出ていて、花が1輪、こちらに向いて咲いているでしょう?あっ、〇〇さんだ。私を励ましてくれてる、て思っているの」。その夜、前の道に回って、その椿を月あかりの下で見た。お母さん、あなたはたくさんの人の心の中で生きているのね。お母さん、いま、天国で何してる?私は「悲しみと絶望」という名の湖の湖畔を変わりゆく景色に励まされながら、グルグルと廻っている感じ。あなたを失って急に老け込んだお父さんと力を合わせて、何とか、やっているよ。

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山の端

 

今年は多くを失った。取材した女優さんに「私、あそこの焼きそばがないとダメなの」と教えてもらった五条通に面したお好み焼き屋さんが閉店した。おばさんたちが、独特の手法で焼くキャベツいっぱいの焼きそばは、海外にも紹介されて、旅行者からも愛されたが、57年の歴史に幕を下ろした。日本を代表するアパレル会社が上場を廃止して倒産。パリコレでおなじみのデザイナーのコレクションを扱っていて、とても贔屓にしていたが、ある日、突然に購入できなくなった。中学時代から通っていた滋賀県大津の百貨店が閉店した。ポストには、日に2,3枚の割合で閉店や廃業の知らせが投げ込まれる。時世と言えば、それだけだけど、しかし、一気に思い出の場所や大好きなものが、手のヒラから流れおちる白砂のように無くなっていく。人の感情に「あきらめ」というのがあって良かった。でないと、惜別の沼から這い上がれない。しかし、失って一番、悲しかったのは何かと聞かれれば、それは自宅から見えていた山々の端だ。自宅の斜め前に広がる、100台ほどの駐車場の敷地半分にマンションが建設されている最中だ。あれほどの広さの駐車場を維持するのは大変だっただろう、と考えていたが、だんだん足場が作られていき、気が付いた。我が家の居間から庭を通して見る山々の端が見えなくなる。試験前日の徹夜明けに見た。海外旅行に行く前に浮き浮きしながら見た。友人からの電話を受けて心配しながら見た。父親とけんかして、申し訳なくて反省しながら見た。何千回と見た。特に美しいのは、山の端が夕暮れに染まってから薄暮に向かう時。励まされ、癒され、あたりまえにあると思っていた時間。その風景がさえぎられて失われた。そして、また、あきらめるんだろう。生きるって、こういうことなんだ。

 

 

61

 

悲しみ

 

大切な人が、ある日、逝った。元気だったのに、突然に。明日はあると思っていたのに。耐えられないのではないかと思うような悲しみが押し寄せる。その人が生活をしていた空間に身を置くと、二の足の裏から体の軸を伝って心臓を射るような思いが襲う。数々の物が遺されたが、中でも洋服と靴下は抱きしめたくなるような愛しさだ。この服を着て、笑いながら紅茶を飲んでいた。歩き方に癖があったから、靴下のいつも同じところがすぐに薄くなった。洗濯が下手だと怒られた。共に異国を巡る旅を満喫した。もう二度とその体に触れることができない。遺された服たちを手にとると、それを着た姿が次々に浮かび、涙があふれた。いつかは訪れると恐れていた別れ。永遠に続くものは何もない。時の流れと共に悲しみは薄れると言う。たとえ、薄れても消えはしない。ありがとう。そして、さようなら。また、会える、その時まで、さようなら。でも、本当は、一度でいいから、すぐに会いたい。