KYOTOGRAPHIE 都国際写真祭 2017

 

2017515日(日)まで。

京都各所で  詳細はhttp://www.kyotographie.jp/

MEMENTO MORI Robert Mapplethorpe Photographs from the Peter Marino Collection presented by CHANEL NEXUS HALL  ロバート・メイプルソープ「Tulip」1984年 @Robert Mapplethorpe Foundation. Used by permission.

6年目に向かって…

京都を舞台に開催されている「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017」が大詰めを迎えようとしている。

 

初年度に、2人の共同創設者/共同代表の志と発案から生まれた写真祭が開催されるという発表を、京都では少しばかりの驚きと戸惑いをもって受け入れられた。まず、日本では欧米と比べて「写真」の文化的なプライオリティが高いとは言えず、受け入れられ方が違う。それが写真家の社会的な地位にも直結している。「わざわざ写真を鑑賞しに出かける」という意欲は、残念ながら絵画に比べて低いと言わざるを得ない。

 

さらに、京都は景観保持にうるさく、街並みの美しさを過敏に問う土地だ。街頭や寺院に、多くのポスターや旗を貼ったり掲げたりすること自体、受け入れられにくいと言われた。

 

しかし、小さなうねりは、回を重ねるごとに行政、地元の人や企業、ラグジュリーブランド、有名企業を巻き込んで、パフォーマンス性を高めてきた。「KYOTO」というブランド力もあり、主催者側の発表によれば、昨年までに25万人が訪れたとされている。

 

わずか5年で「今年も、開催される」と京都人の意識の中に潜在的に入り込んだ写真祭。国内外の有名な作家の貴重な写真作品やコレクションを、京都の寺院、歴史的建造物、ギャラリーなどで展示されている。

 

新たな試みのめざすものは何か。

 

それは京都という文化・観光都市のパワーを借りて日本での「写真」の芸術的価値を高めると共に、写真が日常生活の中で普通に傍にあるようなライフスタイルの提案であるように思う。そして、自己に生死、愛を問う時間を持つことへのいざないでもある。

 

主催側の志の高さ、受け入れ側の本気度を試され続ける写真祭なのだ。

難しいことはどうでもいい。とにかくCOOL!これだけは見ておきたいBEST3

いくら京都が狭いといえども、すべての会場を巡るには時間が足りない、という人に、これだけは見ておいた方がいいのでは、という展覧会&会場を紹介する。

アーノルド・ニューマン マスタークラス -ポートレートの巨匠- presented by BMW

 

会場=二条城 二の丸御殿台所・東南隅櫓

Arnold Newman “Masterclass” presented by BMW アーノルド・ニューマン「アンディ・ウォーホル、画家・版画家」ニューヨーク、1973年 © 1973 Arnold Newman / Getty Images 二条城 二の丸御殿台所(会場写真:大島拓也

 

リチャード・ギアを発掘し、この世に出したことで知られるハーブ・リッツと並んで、20世紀を代表する肖像写真家のアーノルド・ニューマンの没後初となる国内での回顧展。Life誌やFortune誌のために撮り下ろした有名人やハリウッドスターのモノクロのポートレートが二条城の白壁に映えている。スタジオではなく、生活の場や建物などと共に撮影する「environmental portraits」の旗手だけあって、画面の切り取りが絶妙。中でも同じ写真家のロベール・ドアノー(「パリ市庁舎前のキス」などの作品で日本でも知られている)のポートレートはその技術とセンスが垣間見られる。

 

荒木経惟 机上の愛 supported by shu uemura

 

会場=両足院(建仁寺内)

Nobuyoshi Araki "A Desktop Love" supported by shu uemura 荒木経惟 「机上の愛」2016年 © Nobuyoshi Araki, Courtesy of Taka Ishii Gallery 両足院 ・建仁寺内(会場写真:大島拓也

 

愛を通して、常に生と死を撮り続けているアラーキーこと荒木経惟の独壇場。1971年に死に向かう妻・陽子さんとの新婚旅行を写して自費出版した『センチメンタルな旅』は、今、ページを開いても新しくさを感じ、同時に生死と愛への思いを問われる。ヌード、SMなど、ともすれば過激になる被写体だが、今回は机上に何気なく置かれたオブジェが主役。相変わらず温かく、そして哀愁に溢れる作品ばかりだ。6×7のポジフィルム使用のせいか、色調が懐かしい。昨年パリで発表され絶賛された「机上の楽園」を改題し日本初公開。極彩色の数々が、両足院の庭を背景にして展示されて全く違和感なし、という展示テクニックも楽しめる。

 

MEMENTO MORI ロバート メイプルソープ写真展 ピーター マリーノ コレクション presented by CHANEL NEXUS HALL

 

会場=誉田屋源兵衛 竹院の間 

MEMENTO MORI ロバート メイプルソープ写真展 ピーター マリーノ コレクション presented by CHANEL NEXUS HALL 誉田屋源兵衛 竹院の間 All Mapplethorpe images © Robert Mapplethorpe Foundation. Used by permission.

 

「メメント・モリ」はラテン語で「死を記憶せよ」と訳される。80年代にニューヨーク社交界の中心的存在だったメイプルソープもエイズで弱る自分の死を見つめながら生き、1989年、42歳で亡くなった。建築家ピーター・マリノのプライベートコレクションから約90点が展示。その様式美ともいうべき作品を堪能できる。

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You&Me

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トラックと灯篭

 

 

高校時代から仲良くしている同級生グループがある。中心的な6人は皆勤。その他、数人が入れ替わり、盆暮れのほかにも、あれこれ理由をつけて集まる。女性は自分だけ。住まいは、地元に半分、関東に半分と言う分布図。16歳から付き合ってきた面々は、もう人生の朱夏にさしかかっている。話題も年相応になってきた。その中の一人の話に、全員が聞き入った。「ちょっと早いけど、両親ともに施設に入ってもらったんやわ。俺はちょっと離れたとこに家を建てたやろ?実家が空くやろ?どうしたもんかな、と思ってたら、隣の広大な空き地に総合病院が建つことにことになった。それで、2年間くらい工事スタッフの仮宿に貸した。内装は好きなように触ってもいい、と言ったら、クーラー、洗面台、トイレ、流し台が新品になって返ってきた」。一同「それは良かったな」とうなずく。「それでな、しばらく放っといたんやけど、近所の長谷川から電話がかかってきて」「おー、あの同級生の長谷川くんか」「ガレージに置いてあったトラックが1か月くらい前から、無いで、て言われて。要するに盗まれたみたいや。廃車にしようと思てたから、まあ、ええけど」。「えーっ」とみんなが叫ぶ。「まあ、仕方ないな、と思ってたら植木屋から電話がかかってきて、灯篭がありませんで、と言われた。これまた盗まれたんやわ。それで植木屋が言うには、泥棒は素人やな、て」「な、なんで?」「灯篭の一番下の石台が残ってて、あれが無かったら価値無いらしいわ。これまた、デカい灯篭で、家を更地にする時に費用がすごいやろな、と思ってたから、まあ、良かった」「…なるほど」「それで、問題は、いつ盗んでいったか、トラックに灯篭を乗せたのか、という話になって、昼に作業服を着て、悠々と盗んだんと違うか、ということになったんやわ。しばらくして、きれいになったから、病院が貸してくれないか、ということになって貸してるんやわ」「それで?」「それで、どうせ更地にするから、自由に何してもいい、て伝えたんやわ。そしたら、こんなん、どないするの、ていう巨石2個を撤去して、古い外塀を潰して、雑草だらけの庭にコンクリートを敷いて、駐車場にして、病院が系列の介護施設に貸してるねん」「えーっ、又貸しやん」「ええねん。あの、どうやって運んで来たか知りたい、と長年思ってた巨石が無くなって、きれいに整備されたから、良かったわ」。今年は「まあ、ええねん」と気楽に生きてみよう、と思った次第。

 

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椿

 

 

最愛の母が急逝して丸三年になろうとしている。 心臓が弱かった彼女は、直前まで笑っていて、突然、スッと眠るように逝ってしまった。別れを惜しむことも、感謝の言葉を伝えることも出来なかった。病弱な母を支えるために、大学時代から、かなりの自分の時間と気持ちを捧げてきたつもり、それでも至らぬ子供でごめんなさい、幸せだった?と聞くことも許されなかった。母は慎ましやかに生きた一介の主婦だったが、地域の施設にピアノを寄付したり、恵まれない母子たちを援助したり、と微力ながら社会貢献をしていたので、訃報を聞いて、びっくりするほどの人が悲しんでくれた。部屋に入らないくらいの多くの花が届き、病弱な自分をコントロールしながら懸命に生きた母の人生を誇りに思った。半年くらいたって、微かな疑問が浮き出てきた。南庭に面した道路を挟んで向かい側に、母を本当に頼りにしてくれた婦人がいる。引っ越ししてきてすぐに、ご近所との付き合い方や、子育ての相談に乗り、お互いの家族の成長を祝い、おすそ分けを交換し、長期に留守をする場合は連絡先を託してきた。その方から、お悔やみをいただくどころか、顔すら見なくなった。さらに年月が経ち、母とは何かあったのかもな、と思うようになった。2年ほど経ったある日、最寄り駅から自宅に向かう路上で、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、そこに例の婦人が立っていて、静かに話し始めた。「私はね、〇〇さん(母のこと)が、もうこの世に居ないなんて信じていないし、認めていない。声は聞こえないけど、そういう時もあったし。けど、会えない。ほら、お宅の塀から椿の枝が出ていて、花が1輪、こちらに向いて咲いているでしょう?あっ、〇〇さんだ。私を励ましてくれてる、て思っているの」。その夜、前の道に回って、その椿を月あかりの下で見た。お母さん、あなたはたくさんの人の心の中で生きているのね。お母さん、いま、天国で何してる?私は「悲しみと絶望」という名の湖の湖畔を変わりゆく景色に励まされながら、グルグルと廻っている感じ。あなたを失って急に老け込んだお父さんと力を合わせて、何とか、やっているよ。

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山の端

 

今年は多くを失った。取材した女優さんに「私、あそこの焼きそばがないとダメなの」と教えてもらった五条通に面したお好み焼き屋さんが閉店した。おばさんたちが、独特の手法で焼くキャベツいっぱいの焼きそばは、海外にも紹介されて、旅行者からも愛されたが、57年の歴史に幕を下ろした。日本を代表するアパレル会社が上場を廃止して倒産。パリコレでおなじみのデザイナーのコレクションを扱っていて、とても贔屓にしていたが、ある日、突然に購入できなくなった。中学時代から通っていた滋賀県大津の百貨店が閉店した。ポストには、日に2,3枚の割合で閉店や廃業の知らせが投げ込まれる。時世と言えば、それだけだけど、しかし、一気に思い出の場所や大好きなものが、手のヒラから流れおちる白砂のように無くなっていく。人の感情に「あきらめ」というのがあって良かった。でないと、惜別の沼から這い上がれない。しかし、失って一番、悲しかったのは何かと聞かれれば、それは自宅から見えていた山々の端だ。自宅の斜め前に広がる、100台ほどの駐車場の敷地半分にマンションが建設されている最中だ。あれほどの広さの駐車場を維持するのは大変だっただろう、と考えていたが、だんだん足場が作られていき、気が付いた。我が家の居間から庭を通して見る山々の端が見えなくなる。試験前日の徹夜明けに見た。海外旅行に行く前に浮き浮きしながら見た。友人からの電話を受けて心配しながら見た。父親とけんかして、申し訳なくて反省しながら見た。何千回と見た。特に美しいのは、山の端が夕暮れに染まってから薄暮に向かう時。励まされ、癒され、あたりまえにあると思っていた時間。その風景がさえぎられて失われた。そして、また、あきらめるんだろう。生きるって、こういうことなんだ。

 

 

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悲しみ

 

大切な人が、ある日、逝った。元気だったのに、突然に。明日はあると思っていたのに。耐えられないのではないかと思うような悲しみが押し寄せる。その人が生活をしていた空間に身を置くと、二の足の裏から体の軸を伝って心臓を射るような思いが襲う。数々の物が遺されたが、中でも洋服と靴下は抱きしめたくなるような愛しさだ。この服を着て、笑いながら紅茶を飲んでいた。歩き方に癖があったから、靴下のいつも同じところがすぐに薄くなった。洗濯が下手だと怒られた。共に異国を巡る旅を満喫した。もう二度とその体に触れることができない。遺された服たちを手にとると、それを着た姿が次々に浮かび、涙があふれた。いつかは訪れると恐れていた別れ。永遠に続くものは何もない。時の流れと共に悲しみは薄れると言う。たとえ、薄れても消えはしない。ありがとう。そして、さようなら。また、会える、その時まで、さようなら。でも、本当は、一度でいいから、すぐに会いたい。